ジャック・カルティエ

ブルターニュのサンマロに生まれたジャック・カルティエは、1532年にフランスのフランシス1世から新世界への遠征を持ちかけられたとき、おそらくすでにブラジルやニューファンドランドで貿易や探索を行っていたのだろう。 1534年4月、カルティエは2隻の船で「大量の金やその他の貴重なものが見つかると言われているある島や土地」を発見するために出発した。

カルティエは驚くほど順調に航海し、わずか20日でニューファンドランドに到達した。 彼が計算したニューファンドランドのボナビスタ岬の緯度が、実緯度から約11マイルしかずれていなかったことは、カルティエの航海士としての腕前と、16世紀の航海術について多くを物語っている。 ベル・アイル海峡の西側で、カルティエはラ・ロシェルのフランス船と遭遇した。 彼の記述から、フランスとポルトガルの漁師が以前からこの海岸に出入りしていたことは明らかである。

カルティエはラブラドール南岸の人を寄せ付けないような土地柄を嫌い、ニューファンドランド西岸を南下し、セントローレンス湾を渡り、肥沃なプリンス・エドワード島を眺め、1534年7月半ばに本土のガスペに到達した。 セント・ローレンス河口のアンティコスティ島を探検したが、悪天候のためセント・ローレンス川を逃した後、フランスに戻り、1534年9月にサンマロに到着した。

ほとんどすぐにフランシス1世の再命を受けて、1535年に今度はグランドエルミン号を含む3隻でより堂々と遠征を行うこととなった。 5月中旬にサンマロを出発したカルティエは、前年に出発したサン・ローレンス河口へ直行した。 原住民から得た情報をもとに大河を遡り、水が塩から淡水へと徐々に変化する様子も見られず、1535年9月初めにイロコイ族の村スタダコナ(現在のケベックシティ)の場所に到着した。 さらに川を遡り、サンピエトロ湖に船エメリヨン号を停泊させ、あとは長船で先住民の村ホチェラガ(現在のモントリオール)へと向かった。 10月に到着した村には、要塞化されたイロコイ族の村があり、彼はその村をモン・レアル(Mont Réal)と名付けた。 この丘の頂上から、後にLachineと呼ばれることになる急流を見ることができ、西への航海を阻んだ。

カルティエは1535年から1536年の冬を、彼の部下が原始的な砦を作ったStadaconaに戻って費やした。 カナダの標準からしても寒い冬であった。 11月中旬から4月中旬まで、カルティエの船は氷に閉ざされた。 さらに悪いことに、新鮮な果物や野菜を食べなかったためにビタミンCが不足し、壊血病にかかった。カルティエの部下110人のうち、1536年2月までに元気だったのは10人だけで、最終的に25人が死亡した。 それは白杉の樹皮から作られた点滴で、大量のビタミンCが生成され、それによって兵士たちはすぐに回復したのである。 しかし、1541年に次の遠征が始まるまでに、1人を除いて全員が死亡していた。 この時の遠征隊は、ジャン・フランソワ・ド・ラ・ロク・ド・ロバーバルが率いるもので、以前の遠征隊よりもはるかに大規模で、約1500人の隊員の中に入植者が含まれ、8隻の船を伴っていた。 カルティエは砲を待つロベルバルより先に出発し、1541年8月にスタダコナに到着した。

今度はスタダコナの数マイル上にキャンプを張り、以前より快適な冬を過ごし、春になってもロベルバルの気配がないので、1542年6月にフランスに向けて出帆した。 ニューファンドランドのセントジョンズ港でカルティエはロベラルに出会い、ロベラルは彼にケベックに戻るように命じた。 様々な理由があったが、先住民との関係が悪化していたこともあり、カルティエは帰らず、暗闇に紛れてフランスへ向かった。 彼はサン・マロからほど近い田舎の領地に居を構えた。 1520年にカトリーヌ・デ・グランシュと結婚したが、子どもはいなかった。 1557年9月1日、サン・マロで死去した

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