後にパルテノン神殿が建設されたおおよその位置に、アテネ人が建設を始めたが、前480年に建設中にペルシャ軍によって焼失した。 アテナに捧げられたものと推定され、破壊後、その遺跡の多くはアクロポリス北端の要塞の建設に利用された。 この神殿についてはあまり知られておらず、破壊されたときにまだ建設中であったかどうかについても論争がある。 巨大な土台は石灰岩で、柱はペンテリコン大理石という初めて使われる素材でできている。 パルテノン神殿は、紀元前447年から432年にかけて建設され、アクロポリス建築群の中心的存在であった。 建築家はイクティノスとカリクラテス(ヴィトルヴィオスはカルピオンを建築家として挙げている)で、女神アテナ・パラスまたはパルテノス(処女)に捧げられた。 神殿の主な役割は、フェイディアスが金と象牙で作った記念碑的なアテナ像を保護することであった。 パルテノン神殿の建設には、アテネの国庫から469銀タラントが投入された。 この金額に相当するものを現代に作ることはほとんど不可能であるが、いくつかの事実を見ることは有用かもしれない。 1タラントとは、当時の最新鋭の軍艦であるトリメ1隻を建造するのに必要な費用である。 (http://www.brown.edu/Departments/Classics/CL56/CL56_LN11.html、
「1タラントは軍艦の乗組員に1ヶ月間支払う費用であった」(D. Kagan, The Peloponnesian War, 61)。
パルテノン神殿はドーリア式で、ファサードは8本、側面は17本の円柱で、9:4の比率が定められている。 この比率は、神殿の垂直方向と水平方向の比率、また柱と柱の間隔や高さなど、建物の他の多くの関係を支配していた。
特大のアテナ像を納めるためにセラは異常に大きく、正面と背面のポーチは通常よりはるかに小さいサイズに制限された。 6本のドリス式円柱が前列と後列のポーチを支え、23本の小さなドリス式円柱の列柱が2階建てで像を取り囲んでいる。 5036>
奥の間はアテナの財宝を保護し、イオニア式の4本の柱がその屋根を支えていた。 ドーリス式が主体の神殿にイオニア式の要素が導入されたのは、ケーラの外壁に連続する凍結の展開がより劇的であった。 ドーリス式とイオニア式の要素が同じ神殿上に統合されることは、ギリシャ建築では新しい展開ではないが、珍しいことであり、パルテノン神殿に、厳粛さと繊細さの微妙なバランスを持った視覚的特性を付与したのである。
ギリシアの神殿はすべて外から見ることを前提に設計されていた。 鑑賞者は神殿の中に入ることはなく、開いた扉から内部の彫像を垣間見るだけであった。 パルテノン神殿は、美的要素によって外観とアテナ像のある内部をスムーズに行き来できるように考えられていた。 プロピュライアからアクロポリスを訪れた人は、パルテノン神殿の雄大なプロポーションを、西側ペディメントと北側コロネードの全景を含む4分の3ビューで目の当たりにすることになる。 鑑賞者が近づくにつれ、彫刻されたメトープの細部が明らかになり、円柱の基部に近づくと、円柱の隙間からフリーズの一部が色鮮やかに見え、心ときめくものとなった。
東に移動し、ケーラの外側を見上げると、訪問者はパナテナイックの行列の見事な描写に魅了され、それはフリーズに映画のように現れ、外側のドリス式円柱によって視覚的に中断された。 これは、アテネ市民なら誰もが経験したことのある光景であり、地上と神界の間をスムーズに行き来することができる。 東に向かう訪問者は、やがて角を曲がってパルテノン神殿の入口に向かい、そこで東側ペディメントの高い位置にあるアテナの誕生と、そのすぐ向こうにあるフリーズのオリンポスの神々と英雄たちの間でペプロスをたたむアレフォリアに直面することになる。 そして、そのすぐ下の「ペプロス」の場面では、巨大な開扉を通して、薄暗いセラの奥に立つ記念碑的なアテナ像の金と象牙の色彩の輝きに、訪問者の誰もが魅了されることであろう。 アテナ・パラス像は、その巨大な体躯を水盤の静かな水面に映し出し、さらに小さなドリス式円柱に縁取られ、2段重ねの配置で、内部空間が外観よりもさらに大きく、高く感じられるようになっている
パルテノン神殿の設計者は、これを演劇として構想していたことは間違いないようである。 見る人の動きを想定して建設され、神殿の配置、ペディメントの記念碑的彫刻、細部のフリーズによって、訪れる人の感情が振り付けられ、ナオスの内部で威厳あるアテナ・パルテノスを究極的に垣間見るための準備がなされ、畏敬の念を抱く訪問の効果を最大化することができた」
続き。 パルテノン神殿 2ページ
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